Hindemith Blog

作曲家パウル・ヒンデミットについて書くブログ

「はじめての音楽史」

ヒンデミットって音楽史の中でどんなところに位置している人なんでしょう。

ウィキペディア見ても、さまざまな楽器を演奏できて、作曲も指揮も教育もした人ってことはわかるけど、音楽史の中でどんな位置にいるのかピンとこない。

そんなときに「はじめての音楽史」を開いてみてみます。

わたしが大学生の時、音楽史の授業で使用した教材はこの本でした。

西洋音楽史と日本音楽史をぎゅぎゅっと圧縮した内容です。

音楽史の流れを概説したものになるでしょう。

さて、本を手に取り、後ろの方にある「人名索引」でヒンデミットを引きます。

すると115、117、118の3ページに記載があるようです。

それぞれ見ていきます。

 

〈115ページ〉

 ドイツでも表現主義への反動の波が起こり、ブゾーニ新古典派主義への転向を宣言した。また初期には表現主義的な歌劇《殺人者、女の望み》、《ヌシュ・ヌシ》、《聖スザンナ》という三部作を書いていたヒンデミットも、《画家マティス》をはじめ明快な形式をもつ古典的な音楽へと方向転換する。〈実用音楽〉といった呼び名があたえられているものも、そうした傾向の音楽である。

 この引用部分は「新古典主義」という項目の一部分にあたります。ヒンデミットは、ドイツにおいては新古典主義のNo.1~2の位置にあり、表現主義から新古典主義へ転向したということが読み取れます。

 

〈117~118ページ〉

 アメリカに渡ったシェーンベルクストラヴィンスキーヒンデミットといった作曲家たちは、教育者として、この国の音楽創造の発展に寄与することになる。(中略)もっともヨーロッパからの亡命作曲家たちが新天地で自らの創作をそのまま全うできたかというと、かなり疑問もある。シェーンベルクは《組曲ト短調》を皮切りに、アメリカの風土に合わせて、調性をもつ音楽に再び手をそめた。ヒンデミットの《ウェーバーの主題による交響的変容》も同様の文脈で理解できる。

アメリカへ亡命した一流の作曲家たちは、アメリカでは優秀な教師として活動する一方、自分の創作はアメリカでもうけるように作曲していた。ヒンデミットもその一人だ、ということですね。

 

ここまで読んでみると、ヒンデミットはドイツ人ではトップだけれど、シェーンベルクストラヴィンスキーには一歩及ばない感じに見受けられます。超一流だけれど2番手3番手、みたいな。

「はじめての音楽史」から読み取れるヒンデミット像は以上です。存在感がありません。